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隣国である中国と私たちはこれからどうつきあって行けばいいのか。一緒に勉強しましょう。


by shinoper

重慶での反日感情

日の丸焼く姿も…試合後に露呈した根強い反日感情とういう報道を読んで、一年ちかく前に日本の国際的評価というニュースが有ったのを思い出しました。

この統計の質問は、 「日本の影響を、好ましく思うかどうか」 という事であったと思いますが、反日感情とかなり近い結果がでていると思い、貴重な資料だと思っております。

中国に駐在している人の多くの日本人は、中国人のそんな反日感情は感じないと言います。私も中国人の中で仕事をし、生活をしておりますが、確かに私も生活の中から彼らの反日感情を感じる事は滅多にありません。たまに、中年のタクシーの運転手や店のオーナーらしき人に、日本の政治や戦争の事について聞かれる事がありますが、真剣に話をすると口論になりそうなので、興味がないといって、真剣に話をすることはさけております。なにせ、周りは中国人だらけなのだから、口論になって人が集まってくると勝てるはずもないと思います。

しかし、私は、そのような話になると話の端々で、反日感情を感じます。当然面と向かって、その感情をぶつけてくる人はいないでしょう。それは、日本人でもアメリカ人を目の前にして、戦争の文句をいう人などいないのと同じだと思います。しかし、心の中に多少なりとも戦争の時の反感は存在します。

中国人の反日感情を中国の教育の問題であるいう話をよく聞きます。しかし、最近中国人と結婚され、お子さんが中国の学校へ通っておられる人もおられますが、その人達のブログを読むんでも、そんなにひどい事は中国の学校では教えられていないようであります。

中国人で日本に定住されている林思雲(ペンネーム)さんという方が、ネット上に中国語で中国人のその感情について分析されている文章を読むと、単純に中国の教育の問題と言うのは、間違いであるように思います。以前、その文章を訳してブログに書いておりますので、ご興味の有る方は、是非一読していただきたい。

中国人は、なぜ日本を憎むのか 前編

中国人は、なぜ日本を憎むのか 後編

一般に「中国人が反日感情をもっている」と一言でいわれる事が多いのですが、広い中国では、その地方地方でその感情にはかなりの開きがあるように感じます。一般的に、言われるのは、東北地方の反日感情はあまり悪くないと聞きます。サッカーでたびたび問題になる重慶、また南京大虐殺が起こったとされる南京は、反日感情が大変強いようです。

中国の東北地方というのは、日本が満州国を作ろうとしていた場所で、ここで反日感情があまり強くないというのは、不思議ではありませんか。また、台湾でも長い間日本が植民地化していたのに、反日感情は強くありません。反日感情よりも親日感情の方が強いといってもいいかもしれません。当然、人によってかなり違いがあるのは当然ですが。

これには、かなり自信をもって説明できる理由があります。

その答えは、後藤新平(1857-1929)という人です。

明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家。
台湾総督府民政長官を勤め、満鉄初代総裁。

台湾を統治するに当たり、彼は、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足。
京都大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、自ら同会の会長に就任。
京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして、清朝の法制度の研究をさせ『清国行政法』を作成。

統治者、植民地支配といっても、しっかりとした政治なり行政をやっていれば、国籍に関係なく人々はそれを受け入れる事ができるのではないでしょうか。

では、なぜ重慶、南京での反日感情が極端にわるいのか。
我々日本人は、中国人を責めるのではなく、真剣にこの問題と向き合う必要があります。
決して日本人は悪いことをしたんだ。と引け目を感じなければいけないという事ではありません。
当時戦争という状況の中で、殺し合ったのです。
仕方がなかった部分もたぶんにあると思います。
しかし、実際に被害に会われた方々が、その敵国を恨むのも当然の感情でもあります。
その悲しみや恨みを私たちは、理解してあげなければなりません。


そして、もう一つ、南京と重慶。
なにか思い当たりませんか。
どちらも蒋介石の国民党政府の本拠地です。

当時、日本は、全世界を敵に回してしまいました。
一刻も早く日中戦争を終わらせたかったのだと思います。
その焦りが、この2つの都市に異常なまでの攻撃を仕掛けたとしても不思議ではありません。

南京での事は広くしられておりますので、ここではふれません。
重慶では、無差別爆撃が行われました。

1939年から1941年に行われ、投下した爆弾は1940年には4,333トンにも達したそうです。
中国側の資料では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟。

東京大空襲で106回の空襲が行われ約38万発の爆弾が投下されました。しかし、その合計は1,700トンです。死者約8万~10万。負傷4万~11万名。焼失26万8千戸。

戦死者の人数と使用された爆弾の数量がいかに異常な攻撃を行ったのかを物語っているように私には思えます。
# by shinoper | 2008-02-23 13:55 | 中国事情
ラスト・コーションに見られる易氏と王佳芝の関係を、「虎と伥」の関係と評論家達は言います。
虎と伥とは、下記の物語から来ております。

身を捨てて国のために尽くそうとした王佳芝も結局中国では、汪精衛と同じように売国奴扱いされてしまうようです。ここら辺の最終的な感情、判定が、今でも日本と中国では違うように感じます。

日本では、王佳芝は悪人にはなりえないと思います。
しかし、中国では悪人になってしまうんですね。


為虎作伥昔、ある地方の洞穴に、獰猛な虎が住んでいました。
ある日その虎は食べ物が無くなりお腹がすいたので、洞穴をでて付近の山に獲物を見つけに行きました。
丁度その時、山の中腹の遠くない所に、一人の人が歩いて来るのが見えました。
すぐに走っていって襲いかかりかみ殺して、その肉を食べてしまいました。

しかし、それでもお腹が一杯にならない虎は、その死んだ人の霊魂を捕まえて、もう一人捜して食わせるように脅します。
そうしないといつまでも自由にはさせないと。
その霊魂は仕方なしに同意します。
そうして、その霊魂は、虎の案内役になり、ついに二人目を見つけます。
その霊魂は自分が自由になるために、虎の手助けをします。
まず、その霊魂が人を迷わし、帯を解かせ、服を脱がせ、虎が食べるのに便宜を図ります。
その虎を助けた霊魂は、「伥鬼」と呼ばれます。


それ以後、
悪人を助けて非道徳な事をすることを「為虎作伥」というようになりました。
# by shinoper | 2008-01-22 19:28 | ラスト・コーション
映画の易氏が、丁黙村で有ることは、先に書きましたが、
= 王佳芝は、鄭苹如です。 =

映画「ラスト・コーション」 鄭苹如_a0098192_12344460.jpg
鄭苹如は浙江蘭渓の人で、1918年生まれ。父は、鄭鉞、別名英伯。彼は、若いころに日本の法政大学に留学、孫中山と革命に奔走。同盟会に加入し国民党の元老でありました。

彼は東京で日本旧名家の娘木村花子と知り合います。花子は中国革命に非常に同情し、結婚後花子は夫と中国で暮らし、名を鄭華君と改名。彼らは二男三女をもうけ、鄭苹如は次女。彼女は幼い頃から聡明で、人の気持ちをよく察し、母親から流暢な日本語を学んでいました。

鄭英伯は帰国後上海復旦大学教授を務め、また江蘇高院第二分院の首席検察官をつとめたこともあります。鄭苹如は明光中学に行っておりましたが、その時の中学の校長が丁黙村でありました。

抗戦が始まってから、鄭苹如は抗日救国運動に参加。上海陥落後、彼女自身の卓越した条件(社会的人間関係と日本語能力)によって、抗日の地下工作を行います。中統に加入当時わずか19歳。

鄭苹如はきわめて優秀な諜報員で、彼女は母親の人間関係を利用し、日本側の高級幹部の内、日本首相近衛文磨が上海に派遣した早水親重と関係をつけ、早水の紹介で近衛文磨の息子近衛文隆、近衛忠磨、および華中派遣軍副参謀総長今井武夫などと知り合いになります。


= 丁黙村暗殺 =

汪精衛政権は、当時上海の極司菲爾路(現在の万航渡路)76号に、スパイ工作本部を設立。主任丁黙村は原軍統(国民党特務組織)第三所所長、売国奴の李士群と日本側に寝返って、抗日を邪魔しておりました。

中統上海潜行組織の責任者、陳果夫の甥にあたる陳宝華(馬編)は、彼の弱点である好色をついて、「美人計」を考え、彼の抹殺を決定します。中統は、時機が来たのを見て暗殺にかかります。

初回、鄭苹如は丁黙村を彼女の家に招待。鄭家付近に狙撃者を張り込ませます。彼の乗用車がもうすぐ鄭家に着く時、彼は考えを変え、帰ってしまいます。

第2回、1939年12月21日丁黙村は滬西の友達のところで、昼食をとっておりました。彼は鄭苹如に電話して誘い出し夕方まで一緒に過ごします。丁は虹口へ行かなければいけないと言い、鄭は南京道に行かなければならないといいます。一緒に車に乗り、静安道、戈登路(現在の江寧路)のシベリア皮革製品店まで来ると、鄭苹如が急に毛皮の外套が買いたいと言い出します。彼も彼女と一緒に車を降り、一緒に外套を選びます。しかし、その時彼は気づきます。ガラスの窓の外に、2人の不審な男がこちらをじろじろ見ているのに。丁は情勢が怪しいことに気づくと、オーバーコートのポケットから札束を取りだし、ガラスケースの上に置き「自分で選んで。俺は先に帰る。」と言い残し、外に駆け出します。

店の外を徘徊していた中統特務は、丁黙村が、外套も選ばずに飛び出して来るとは思いもせず、一瞬躊躇します。丁の運転手は、彼が狂走して来るのを見つけ、エンジンをかけ、ドアを開けます。銃声が鳴った時には、彼はすでに車内の中に入り込んでいました。銃弾は、防弾車に撃ち込まれますが、彼には全く傷は有りませんでした。

彼女は、自分一人で彼を暗殺する事を考えます。拳銃を隠し持ち。しかし、丁もすでに彼女を捕らえる網を張っておりました。翌々日、鄭苹如は、車で76号行き、丁黙村を尋ねます。しかし、そこですぐに丁の側近林之江に拘留されます。李士群の妻、叶吉卿はすぐにそのことを知り、沈耕梅を行かせて尋問させます。丁黙村は、阻止することができません。鄭苹如は彼女と中統の関係を否認。しかし、丁を殺そうとしたことは、彼にもてあそばれたからだと認めます。丁黙村は鄭苹如が、自分の暗殺に関係したことを恨みます。しかし、彼女の美しさに未練があり、彼は彼女を死地送ることはできませんでした。

しかし、丁黙村の妻、趙慧敏は密かに林之江を捜し出します。そうして、鄭苹如は、秘密裏に憶定盤路三十七号の「平和救国軍」第4路司令部内に移されます。このことは、丁黙村も李士群も知りませんでした。1940年2月ある月の光の無い晩、林之江は、囚人室から丁黙村が呼んでいると鄭苹如を連れだし、車で歪んだ道を通り、滬西中山路の空き地に着きます。

鄭苹如は、3発の銃弾に倒れます。当時わずか23歳。

# by shinoper | 2007-12-24 12:40 | ラスト・コーション
張愛玲の小説は、他にも映画化、ドラマ化されているものがいろいろと有ります。
是非、この機会にご覧になってはいかがでしょうか。

= 映画 =

映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_11454230.jpg
傾城之恋 (1984) 出演:周潤発 あまり評判が良くない

















映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_1147458.jpg
滾滾紅塵 (1990) 出演:林青霞/秦漢/張曼玉/顧美華/呉耀漢/厳浩


















映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_11492276.jpg
紅mei瑰与白mei瑰 (1994) 出演:趙文宣(王編)/叶玉卿/陳冲 第31届台湾金馬奨最佳編劇、最佳女主角等5受賞作品

















映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_1150272.jpg
半生縁 (1997) 出演:葛優/黎明/梅艶芳/黄磊/王志文
















映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_11512456.jpg
海上花 (1998) 出演:高捷/劉嘉玲/潘迪華/梁朝偉/李嘉欣/羽田美智子
















映画「ラスト・コーション」 張愛玲_a0098192_11534645.jpg
色・戒 (2007) 出演:梁朝偉/湯唯/王力宏/何賽飛/陳冲/度宗華 ベネチア映画祭金獅子賞受賞























= テレビドラマ =

半生縁   2003

金鎖記   2004

傾城之恋  撮影中

= 張愛玲 語録 =

<愛>
于千萬人之中遇見ni所要遇見的人、于千万年之中、時間的無涯的荒野里、没有早一歩、也没有晩一歩、剛巧gan上了、没有別的話可説、唯有軽軽地問一声:「O, ni也在這里」

<半生縁>
我們再也會不去了

<紅mei瑰与白mei瑰 >
也許毎一個男子全都有過這樣的兩個女人,至少兩個。娶了紅mei瑰,久而久之,紅的變了墻上的一抹蚊子血、白的還是窗前明月光、娶了白mei瑰、白的便是衣服上的一粒飯黏子、紅的卻是心口上的一顆朱砂 

<留情>
生于這世上、没有一様感情不是千瘡百孔的

<傾城之恋>
我死了、ni的故事還長着ne、ni死了、我就什莫没有了。
# by shinoper | 2007-12-24 12:02 | ラスト・コーション
時間があれば、この記事の頭からどうぞ!
ラスト・コーションを見られる方は、1つ前の記事から読んでいただければ、当時の背景がよく分かります。


1940年4月日ソ中立条約締結
1941年10月東条内閣成立


1941年12月8日、日本軍は、パールハーバーを攻撃、太平洋戦争が爆発します。多くの人にとって、日本のアメリカに対する開戦は、狂気に写ります。日本は歴史上ずっと人口過剰な状態で、外国への移民は人口問題を解決する良い方法でした。アメリカは、一番裕福な移民先で、19世紀末アメリカ移民が高まります。大量の日本人がつぎつぎとアメリカへ移住。しかし、日本移民は、アメリカでひどい人種差別と迫害を受けます。当時アメリカでは、多くの州が有色人種の土地所有を禁止しており、アメリカ生まれの日系2世3世は、アメリカ国民としては認められておりましたが、土地の所有は禁止され、低い職業にしか従事できませんでした。

当時中国移民もアメリカで同様に激しい人種差別、迫害を受けておりましたが、中国政府は全く気にしておりません。日本政府は、日本アメリカに抗議します。それに対し、アメリカは「排日移民法案」を作成、1924年憲法修正案が制定され、事実上完全に日本移民を禁止しました。当時アメリカはヨーロッパの白人移民には、まったく規制をしていないにも関わらずです。

1924年から1945年の日本敗戦まで、1人として日本人移民はアメリカに認可されておりません。明らかに日本人およびアジア有色人種に対する蔑視です。当時アメリカの「排日移民法案」は日本で、大きな怒りを買っており、反米感情は高まっておりました。親米派は窮地に陥り、日本が熱狂的ナショナリズムの道を歩むことを成ったのです。日本が真珠港攻撃をする一因でもあります。

また、日本がアメリカとの戦争を起こす直接の原因は、アメリカが石油を禁輸したことです。当時日本は、90%以上の石油をアメリカに依存しておりました。飛行機、軍艦、戦車による近代戦争において、アメリカが日本への石油供給を絶つだけで、日本は戦うことが不可能になったのです。

近年の資料を見ると、アメリカの美孚石油会社は、1920年代に中国の大慶油田を発見しておりました。しかし、アメリカはその事を公表せず、中国に石油はないと言っておりました。さらに、「中国貧石論」などを出し、中国石油に死刑を宣告していたのです。当時日本も中国北東部で石油を探しておりましたが、アメリカ人が探査した所は、探査しておりません。彼らは、アメリカを信じ、本当に石油はないと思いこんだのです。まさかアメリカに騙されているとも気づかずに。日本が中国で石油を発見していたら、アメリカの石油禁輸に対して真珠湾を攻撃することも無かったかもしれません。

太平洋戦争爆発後、汪精衛は中国を代表して英美に宣戦布告すると共に、南京政府も太平洋の前線に派兵し、日本軍と共に戦う事を提案します。汪精衛のこの提案は、南京政府自身で強大な軍隊を作るための口実でした。しかし、日本は彼の参戦に同意しません。日本は南京政府に懐疑的でした。強大な軍隊を作った後、彼らが、銃口を自分たちに向けるのではないかと。


1942年1月マニラ陥落
1942年2月シンガポール陥落
1942年6月7日ミッドウェー海戦


1942年以後、日本は太平洋戦線に主要兵力を投入、中国戦場はもぬけの殻となっておりました。南京政府にも日本の窮地が見てとれ、しだいに強硬な態度をとって、日本に主権を返還することを要求、政府力を拡大します。

1942年9月22日汪精衛は南京の日本特使を訪問、前平沼騏一郎に南京政府強化を進言します。汪精衛は、その中で日本に南京政府の財務と行政に干渉しないように要求します。

1943年1月9日南京政府と日本は《租界返還と治外法権の撤廃》に調印して、英法租界と日租界が中国に還ります。

1943年2月2日汪精衛は主席令を出して、国旗の「平和、反共、建国」も文字が入った黄色い
三角巾をはずさせます。

1943年10月30日南京政府と日本は《華日同盟条約》を再調印し、1940年に結んだ《華日基本条約》中の主権喪失部分を大幅に改善しました。

汪精衛は太平洋戦争を利用して大いに南京政府の地位を改善しましたが、日本が負ければ、彼の努力も泡と消え去るのです。

1943年以後、日本敗戦の色が濃くなると、南京政府の役人は自分たちの行き先を心配し、周佛海などの多くの高官はひそかに重慶方面と連絡を取り初めておりました。蒋介石の重慶政府と毛沢東の中共も同様に汪精衛政府に注目しておりました。俗に「両湖熟、天下足」と言いますが、汪精衛南京政府は中国の最も人口が多くて物産の豊かな地帯及び上海という国際都市を占拠していたのです。日本敗戦後、南京政府は重慶と延安のどちらかに、吸収されるしかなく、吸収した方が力をつけることになります。蒋介石は周佛海などの以前の部下に近づき、毛沢東は同様に汪精衛に接近しようとしておりました。

1943年8月汪精衛は、1935年暗殺されかかった時に背中の銃弾を取り除けて折らず、そのキズが悪化し出しました。11月21日日本政は、内科の黒川利雄教授を南京に派遣検査します。汪精衛は銃弾の摘出を希望しますが、黒川はこのままの方が良いと診断します。黒川が去った後、その痛みは日に日にひどくなります。

南京日本陸軍病院院長の后藤が治療に当たり、銃弾が神経を圧迫していると診断、銃弾の摘出を勧めます。12月19日後藤は自ら執刀し、銃弾を取り出します。術後、病状は急激に悪化、体温が上昇し、下半身が麻痺します。1944年の元旦以後、汪精衛はベッドに座る事すら出来なくなります。

1944年2月日本政府は、再び黒川を派遣。彼は、骨髄が腫れており、治療法がないと診断。死亡率は90%であるので、日本に行って先進的な設備のある所での治療を勧めます。

3月1日名古屋帝国大学日本神経外科医学権威斎藤真は、首相東条英機の命を授け南京で診断。黒川の診断と同じ見解を示し、日本での治療の必要性を説きます。

1944年3月3日汪精衛は、陳壁君と子供達と一緒に、専用機で日本への治療に旅立ちます。

3月4日名古屋帝国大学付属病院は黒川利雄、斎藤真などの8人でチームを編成、汪精衛を再診します。診断後、齋藤が自ら執刀し、手術を行います。術後、大分よくなり、2ヶ月麻痺していた両足も感覚が戻りました。しかし、1944年9月汪精衛の病状は再び悪化。1944年10月汪精衛は、危篤に陥ります。

11月8日米軍の大規模な名古屋空襲が始まり、汪精衛は地下室に移されます。地下室は、暖房設備が無いため大変寒く、汪精衛は肺炎を併発。翌日40度の熱が出て、呼吸困難になります。11月10日午後、病室にいた汪夫人陳壁君が大声で叫びます。汪精衛は最後に「私は中国へ帰らなければいけない」と言い残して、この世を去ります。

=== 1944年11月10日午後4時20分、汪精衛呼吸停止。 ===

翌日、日本の首相小磯、前首相東条英機、前首相近衛文呂などが駆けつけ汪精衛と告別します。汪精衛の遺体は、11月12日に専用機で、小磯首相、親衛などの見送りを受けて中国に運ばれました。汪精衛は、生前梅の花を大変好み南京市の花を梅に定めました。汪精衛は名古屋大学での療養中、名古屋大学に紅梅の苗木を贈っており、その2株は今でも病棟の前にあります。汪精衛は南京郊外の梅花山に埋められます。

==== 蒋介石が後に墓を爆破し、遺体を焼却するまでは。 ====

つづく
# by shinoper | 2007-12-24 11:31 | ラスト・コーション